骸と霊
ナプスタブルークみたいな気分。なんか ぜんぜん ヤル気 出ないヤ
昨晩は非常に楽しい会があってそれはそれですごく楽しかったんだけど朝家に帰ってきて急に1人で号泣して意味がわからなくなって尚悲しくなってブースカ寝て起きて今に至る。
目が腫れているような気がする。
俺ってどうすればいいんですか〜??って昨日5回は訊いた。そんなことは誰にもわからんだろ。
煮詰まりに煮詰まりすぎている。
こじらせにこじらせすぎている。
もはや自分ではどうすることもできない分野のペラペラな絶望がずっと張り付いていてこんな気分では現実が悪くなる気がしてなんとか希望を上塗りするんだけど年数回単位でこのなけなしの希望を剥がされてまたふりだしにもどる。こんな事が何年も続いている。それを振り返ってああもう私にはどうしようもないなと再認識する。
みどり、どうしてだ!私はお前と生きたかったのに!
後年思い出せばこんなにくだらない悩みはないと笑うようになるだろうか。それとも今と同じように苦悩と懺悔を繰り返しているのか?
こんなものは一過性の気分の落ち込みに過ぎない。そんなことはわかっている。でも根本の原因が解決しないまま4年くらい経ってしまった。
こんな事で他の全てのやる気を失っている場合ではないのだ。
そもそも俺は悪いことなんてしてない。でもここまで来ると申し訳ない気持ちになってくる。本当はもっとキラキラしたもののはずだ。今や黒く濁ってしまったように見える。オーバーブロット寸前。だけど俺にはどうにも出来ない。俺にしかどうにか出来ないことなのに。助けてほしい。マジで。
あの世ならぱらいそ、この世ならかげろう。
兎に角
ウサギにツノでなんでトニカクなのかな。宛字か?
お友達と交換日記はじめたら意外とだらだら文章書くのも悪くないなって思った。思ったけどお友達が忙しそうでターンエンドになったのでまたしても久しぶりにこのブログの存在を思い出した。
いっこ記事かいてしばらく忘れるを繰り返して三回目のブログ。
最近の悩みはモラトリアムが長すぎること。それからアニメを見るくらいしか一週間の楽しみがないこと。
そこそこ自由にやってるという点では日毎のくらしは楽でいい。逼迫した問題だとかなんとかはあまり感じない。毎週楽しみなアニメが今期は3本もあるというのもちょっとした救いではある。逆に毎週30分のアニメ×3が救いになるくらいには日々がグレートーンになりつつある。
みんなそこそこそれぞれの生活に忙しそうで遊びに誘われることもないし身近に好きな人も全然出来ない。
もっとみんなと遊びたいしそろそろ好きな人できてもいいと思う。
よく生きるとはどういう事なのかを、近頃折に触れて考える。
この「よく」の部分は、もちろん「善く」であるということを念頭に置いたうえで、それと同時に「よくできました💮」の「よく」でもあるんじゃないかと思う訳ですけど、そうした場合俺にとってどういった行為や思想がよくやった事になるのかよく分からなくなってきている。
よく遊び、よく悩み、よく食べ、よく飲み、よく語る。
これらはきっと、当人がやり切ったと思えるくらい、みたいなニュアンスが含まれていると思うんだけど、よくよく考えてみればその中身が、主体性というものが私にはあんまり無いので困っているところ。
我のアレテや如何に。
トニカク、くよくよしても仕方がないということだけが分かっている。
あともうひとつ、ちょっとした悩みを思い出した。
最近になってようやく自分がトゥレット症の可能性があるという事に思い至った。生活に支障きたす程ではないので放っといてもいいんだけど。神経症ってどこ行けば治るんですか。
蝶の巣
人生で初めて引越しをした。
前回ブログを更新したのも引越しの話だった訳だけどそれほど普段書きたいことが無い。心ばかり寂しい気持ち。
とにかく今度は自分自身が引越しをした。半年弱西荻窪で暮らしていたことがあるとはいえ、生まれてからのほとんどの時間 帰るべき場所だった部屋がいまや他人(他部屋)になったことの心許なさがすごい。
ボロい部屋ではあったが見慣れた壁と使い慣れた水回り、"自分の家"特有の匂いとかそういうものは落ち着く要素としてかなりでかかったと思う。
新しい住まいはやはりボロくて、日当たりもあまり良くなく未だ"他人の家の匂い"が色濃いかんじがする。トイレもなんか臭いし。そういう訳で非常に落ち着かない。猫もそわそわしている。
物心ついて20余年を過ごした場所から離れて、殻を剥がされたゆで玉子のような気持ちというか、端的に言えば帰る場所がない みたいな不安さがある。蝶とホームレスは家がないのに生きててすごい。
単純に時間経過があればそれなりに慣れて、細かいことなどは気にならなくなるのかな とも思う。然し (ここで前回引越しをした友達に再度ご登場願う)えり子の新居に遊びに行って感じたのは、住居をより快適にしようとする積極性は何より大事だなということだった。彼女の生活のとらえかたには度々感心している。
然しそれもまあまあ当たり前のことである。自然界の昆虫とかカニとかもそういうふうにしてるもんな。
家って一番気を張らないで済む場所なのでそもそもそんな発想はなかったのだけど、環境をととのえる為に少しばかり気合いがいるなあ、てなことにわざわざ今更思い至った。
新しい家はそれなりに築年数のある住居で、恐らくほぼ素人の大家さんがところどころ修繕を施しているらしい。それが嫌になるくらい雑なのがめちゃめちゃ気になる。古い木材に木目調の紙を貼ったりとか、小さい戸板にぱっと見て白いペンキ塗ってるのかと思いきや模造紙みたいな紙貼ってたりとか、トイレの床にリノリウム貼ったりとか、しかもそれが全部ちょっと浮いてたりとかしてて、これらを気にしないのは俺には難しいところだった。
そこで生活をするということと、そこで生活をしている自分がいる というメタ的な視点(多分使い方あってる)と、それぞれをナチュラルに意識すると環境を改善するための気合いも高まるかもしれない。
如何にして快適環境を作り出すかが当面の目標になりそうなので、DIYお役立ちアドバイスなどがあれば教えてください。色々ととのったら遊びに来てね。
花に嵐
普段 紙の手帳に1ページずつ日記を書いていて、筆無精のわたしはブログの存在を完全に忘却の彼方に追いやってたのだけどそれでは勿体ないような気がしたので記す。
柴崎ハウスに万感の思いをこめて
「友達の引越しを手伝う」というイベントにあたった。
存外、思い出すだに楽しい出来事だった。
そもそも小屋の建て込みとか店の大掃除とか、みんなで何かやるとき自分は足でまといなのでは?となってあたふたしてしまうので、正直ピザ食べてマリオカートやったら帰ろうと思ってた。
しかし「友達の友だち」があんなに集ってあんなに一丸となることって、わたしの人生にはもう幾度もない事のような気がする。
初めてエリコの家に遊びに行った時のことを覚えている。
確かまだゴールデンバットが両切りだった頃。そしてはなちゃんはわたしの友達の友だちだった。
エリコは度々わたしを連れ帰ってくれ、はなちゃんはいつも「おかえりーっ」と迎え入れてくれた。
意味もなく一週間住み込んだこともある。二人ともよく受け入れてくれたよな。
そこに遊びに行くとたまに知らない人に遭遇する。エリコとはなこの友達。それでみんなでジュースを飲みながら話をしたり、ゲームをやったりする回が好きだった。あの家にあるいろんな柄のコップが好きだった。二人の友達はみんな漫画のキャラクターみたいで、その風景を眺めているのが好きだった。
引越し作業中に、わたしが高校生のときエリコに専門学校のパンフレットを渡さなかったらどうなってただろう、自分でその学校に通ってたらどうだっただろう、と少しだけ考えた。
考えても詮のないことだった。でも多分、こんなに力を貸してくれる友達はいなかったろうな、とも思った。
エリコの磁力みたいに周囲を巻き込む魅力と、人を乗せることの巧みさに感心する。
あの家が醸していた生活感の一部はわたしには作りものみたいに見えて、それが大層心地よい。エリコと話していると時折、彼女は身の回りの生活を、小説の読者の視点で見ているような感じがした。
あの独特の心地良さは、それが滲み出ていたものではないかなと推察する。
とにかくあの空間がなくなってわたしは人一倍寂しい思いをしている。こんな文章まで作って少々大袈裟でもある。
でも多分、柴崎でしか会わない友達も何人かいるだろうし、そこに漂う空気感はもうない。
今後それぞれの新居に遊びに行くことがもしあれば、このような感傷はなかったことになるかもしれない。そしたらちょっと恥ずかしい。
然しながらまさか「友達の引越しを手伝う」がちょっといい思い出になるなんて 全然思ってもみなかった。